『我等が伊那北高校』を作曲した高木東六さんの記念碑が甦る

11月25日(金)付けの長野日報紙に「高木東六記念碑を再整備」と題した記事が掲載されました。高木東六さんは昭和20年に伊那町に疎開して7年半にわたって暮らし、戦後の伊那地域に豊かな音楽文化を根付かせた恩人です。その功績によって伊那市の名誉市民第1号に選ばれました。伊那市制50周年にあたる平成16年、有志による実行委員会が寄付を集めて伊那市役所駐車場西側に記念碑が建立されました。矢島信之さん(高15)は今秋、「土に埋もれかけている記念碑を見て整備を決意、市と交渉を何度も重ね、石碑や五線譜は高圧洗浄機を使って洗い流し、音響装置も再び音楽が流れるように調整」しました(2枚の写真参照)。矢島さんを突き動かしたのは、新制伊那北高校がスタートした昭和23年に高木東六作曲、藤浦洸作詞によって戦後初めて作られた応援歌「我等が伊那北高校」の存在です。『百年史』には「数多くの応援歌に比して“その旋律の軽やかさ、歌詞の瑞々しさ”ゆえに、むしろ「学生歌」としての趣を呈しており、新制伊那北高等学校の門出に相応しい支柱の一つともなった」と記しています。昭和24年、伊那北高校・伊那弥生ヶ丘高校・上伊那農業高校の音楽部が合同合唱団を作り、高木東六先生を指導者に定期的に練習がスタート。「ベラボン・コーラス」を団名にして3校合同合唱団が誕生しました。3枚目の写真(提供:吉田祐一さん=高3)には、昭和25年4月25日に旭座で行われた倉田芳雄リサイタルに賛助出演した3校の高校生が高木東六さん(3列目中央)とともに写っています。戦後間もない時期に学校の枠を超えた音楽活動が行われていたのです。高木東六記念碑は、その当時を物語る貴重な史跡です。伊那町に疎開していた高木東六について、『伊那路』2005年8月号(583号)で特集しています。